純にダマされた


コピーライターの糸井重里氏が今日の「ほぼ日」で語っています。

 前々から、「純」ということばの怪しさを考えていてね。
 どうやら、ぼくら「純」にだまされているんじゃないか、
 とね、思うようになったんです。


その通りです。
詳しくはwww.1101.comで。


と思ったのですが、この「ほぼ日刊イトイ新聞」というのはアーカイブを残さない主義のようですので、ほぼ全文引用。彼らの主義には反するかもしれないけど。

 
『・ちょっと昔の人なら、
 「純喫茶」ということばを知っていると思います。
 もちろん喫茶店のことですが、
 酒類を出したり、女性の接客をしたりということが
 「ありませんよ」という意味で、
 「純」の字をつけたということらしいです。
 つまり「喫茶店」よりも、「純喫茶」のほうが、
 成り立ちはあとだったわけですよね。
 
 同じように「純文学」というものも、
 「文学」のひとつの枝分かれとして生まれています。
 これも、「文学」より「純文学」はあとからできた、と。

 「純水」というものも、「水」に対して、
 その不純物を取り去ってつくるものだから、
 こっちもあとからつくった人工的な水です。

 「純」なものが、まずあって、
 それが汚れたり、加工されたりして、
 「一般」のなにかになっていく。
 そういうイメージがなんとなくあるのですが、
 「純」は、あとからつくられるものなんですよね。
 
・映画なんかでも、もともとは、
 見世物の一種として、
 不景気の時代のヒマな人びとに向けて
 「動くよ、おもしろいよ」とばかりに、
 劇場で上映したのがはじまりだということで。
 一時の慰め、娯楽、見る玩具、としてはじまったものが、
 だんだん手を変え品を変えになっていったんでしょう。
 つまり、「純な映画」みたいに思われやすい
 「芸術映画」というようなもののほうが、
 手を変え品を変えの過程でできた新参者だったわけです。
 探せば例外もあるのかもしれませんが、
 「生まれたままの美しさ」のように思われている
 「純」というのは「後発の人工物」なんですよね。

 前々から、「純」ということばの怪しさを考えていてね。
 どうやら、ぼくら「純」にだまされているんじゃないか、
 とね、思うようになったんです。』


その通りだと思う。
いやむしろ「バレた!」ってカンジかも!?


多くは語るまい。