ジャンボ鶴田の死を悼む


ジャンボはわがままなプロレスラーだ。
普段の柔和な笑顔とは対照的に、非常に貪欲である。彼はよく世間に、あるいはプロレスラー仲間から「欲がない」、「やる気がない」などと揶揄されていたが、そんなことはない。ジャンボは非常に貪欲である。ただし、その貪欲さは「権力」への指向ではなく、「能力」へと向いていたのだ。仲間を作るのでもなく、社長になるのでもなく、ただ自分が強くなることに、能力を伸ばすことに貪欲であった。
ジャイアント馬場が第一線を退いたとき、あるいは他界したとき、誰もが後継をジャンボだと信じて疑わなかった。ただ一つ懸念があるとすれば、例の持病(肝炎)により、彼自身も第一線を退いていたことくらいだろう。しかし社長という業務に対しての不安点は、全くといっていいくらい何もなかった。
それなのにジャンボは馬場の死とともに自らも引退、しかもプロレス界からの引退を表明し、アメリカの大学の客員教授としての道を選んだ。もちろん、療養中に筑波大大学院で学んだことも大きいだろう。しかしそれは関係者、ファンにとってはたいへんな驚きであった。


ジャンボは人望が薄いとよく言われる。それが原因で(現役トップの三沢とによる全日本プロレスの分裂を避けるために)身を引いたという声もあるほどだ。しかしクレバーなジャンボは、そんなことは重々承知であったろう。というよりもむしろ、ジャンボは常に自分が強くなることを目指していたのだから、面倒見のよさなんてクソクラエと思っていたかも知れない。社長になる気なんか、さらに誤解を恐れずに言えば、馬場の後継者になる気なんか、さらさらなかったかも知れない。馬場から「プロレスとはなんぞや」を身をもって教わり、吸収し、応用し、最強を目指す。これがジャンボ鶴田なのだ。そして引退後は自らの知識欲を満たすため、研究者としての道を選んだのである。


ジャンボはプロレスの下手なプロレスラーだった。客の心をつかむのが下手で、現役時代にも「ジャンボ・ブーム」を作ることはなかった。
しかし、「敵」としてのジャンボは最強であり、最高であった。長州ジャパンプロレスの来襲、天龍革命、三沢の追撃といずれの場面においてもジャンボは最強の敵であり、最高の壁であり続けた。それぞれの時代において最も輝いたヒーローたちの放つ光を浴びて、月のように時には輝き、時には姿を隠しながらも、常に高い目標として存在し続けていた。一部には、藤波辰爾のことを、対戦相手を最も輝かせるプロレスラーと評する傾きがあるが、それを否定はしないが、ジャンボはその「存在」によって、時代のヒーローたちを名優たらせるプロレスラーであった。その意味では、ジャンボ鶴田は最強のヒール(悪役)であった。
そのようなプロレスラーがかつて存在したような気がする。
ジャイアント馬場である。
馬場のプロレスラーとしての価値は、力道山にはじまる日本プロレスの正統後継者であることや、日本人初のNWA世界王者になるなど枚挙に暇がないが、最も偉大な功績は、破天荒な英雄アントニオ猪木の敵であり続けたことである。周知のように、猪木は、ある意味では力道山を超えた日本プロレス界一の英雄である。猪木が「反馬場」「馬場より上」を叫べば叫ぶほどに、馬場の存在意義が高まっていったのである。これと同じ様相が見え隠れしている。
ジャンボ鶴田は見事に馬場のプロレスを受け継いでいたのである。


だからこそ猪木と闘わせてみたかった。
かつて「鶴藤長天(カクトウチョウテン=格闘頂点)」として世代闘争あるいは交流ブームがおこったが、ジャンボの反応は他の3人とは異なり、全く冷静であった。なぜならば、実はジャンボのライバルは彼らではなかったからなのだ。そのことは次の図を見れば明らかである。

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/          ジャイアント馬場           /
/   /
/         師事↑     ↑目標 /
/   /
/       ジャンボ鶴田   アントニオ猪木 /
/                             /
/    目標↑   目標↑   ↑目標    ↑目標   /
/                             /
/  天龍源一郎  ←→  長州力   ←→  藤波辰爾 /
/        ライバル      ライバル /

                                                                                                      • -

すなわちプロレス流の「格」に基づいて言えば、ジャンボのライバルは猪木なのである。
ジャンボの功績の一つに「三冠統一」がある。それまで全日本プロレスの中だけでも「インターナショナル」、「PWF」、「UN」の3つの「世界チャンピオン」があったが、その矛盾を改め、三冠統一を初めて果たしたのがジャンボである。さらに「インターナショナル」、「PWF」の両タッグのベルトをも統合し、「世界タッグ選手権者」ともなった。これらの行動には、猪木のIWGP戦略と同根のものを感じ取ることができる。


彼は最も理想的なプロレスラーだった。196cm、127kgという巨体からは想像できないスピードと鋭さを有していた。彼ほど恵まれた体を持ち、恵まれたセンスとスピードを持ち、かつ恵まれた(適した)時代に存在したプロレスラーは、極めて稀有であり、強いて挙げるならば、ジャンボと猪木、そして前田日明だけであろう。
そう、ジャンボが最後に語った「闘ってみたいプロレスラー」が前田日明であった。ファンやプロレスマスコミは、いわゆる「鶴藤長天」ので唯一実現しなかった対藤波戦を見たがったが、ジャンボは全く強がりでなく「彼との試合は内容(そして結果)が予想できる」と一蹴した。それは60分フルタイムドローで終えた対長州戦からくる自信と、前述した「格の違い」によるものであろう。
そしてそのジャンボが指名したのが前田であった。前田の提唱する「真剣勝負」のプロレスを見てみたい、肌で感じてみたい、ということであった。前田が否定し続ける「自分のプロレス」と一体何が違うのかを知りたいということなのだろう。実現はしなかったが、一見ミスマッチに思えるこの組み合わせは、全く意外すぎて盲点になっていたが、まさしく日本人のヘビー級最高実力者同士の最初で、そして
最後の闘いになっていたかも知れない。
しかしその夢も完全に絶たれてしまった。
夢の闘いは夢の中だけで楽しむこととしよう。


最後になるが、惜しまれるのは、ジャンボが山梨県日川高校に入りながら、ラグビー部に入らなかったことである。

合掌。