支那と差別語

石原慎太郎東京都知事や文筆家の呉智英氏をはじめ、一部の知識人が中国(中華人民共和国)のことを「支那」と呼ぶと、各メディアはこぞってそのことを非難する。


現在において使用する「支那」が差別語であるとは思わない。あくまで地球上の一地域の呼称であると考える。なぜならその語源が次の通りとされているからである。「支那=外国人による中国の呼称。王朝名の秦(しん)が音変化して西方に伝わり、それが漢訳されたものといわれる。わが国では江戸中期から第二次世界大戦まで、中国の一般的呼称として用いられた。」(国語大辞典:小学館 1988.)

しかし、第二次世界大戦前後までに日本で「支那」を差別的に使用していたこともあるかもしれない。そのことが想起されるので中国政府が忌避感を抱いているのかもしれない。相手が嫌がることをしない、というのはそれこそ私たちは小学生の頃から教わってきているし、たとえ論理的には正しくとも、ポリティカルコレクト(政治的適当性)を考慮して、相手の嫌がることは言わない方がいい、という説にも肯くことができる。


だが、中国(中華人民共和国)による「支那」批判には、日本への一方的な抗議だけが目に付く。
先の語源を見ても判るとおり、本来は秦_China(音訳)_支那(漢訳)という派生をしてきた言葉である(江戸中期から、ということなので、実際は「China」と「支那」の間にオランダ語か何かが入っていると思う)。「支那」を抹殺するのなら、「China」もやめさせるよう英語圏および同語源語を持つ諸国に要請すべきではないか。
日本人が、アメリカ人に「ジャップ」と言われると怒るが、支那人に言われても怒らないかと言えば、そんなことは決してない。明白である。


すべての「支那」をなくすなどということは不可能だし、言葉をなくせば差別がなくなるわけでもない。
反対に日本語の語彙を人工的に削除するなどということは日本文化への冒涜であろう。シナチク、東(南)シナ海、シナントロプス=ペキネンシス(北京原人の学名)などは、代替語で済ますことが困難なほど、すでに定着している言葉である。英語の「China」とて同様である。

戦後55年が経ち、「戦争を知らない」親の子供が大人になっている現代において、最も不便なのは、ただ単に「中国」と言ったとき、それが中華人民共和国のことなのか、それとも日本の山陰・山陽地区を含む中国地方なのか非常に紛らわしいことである。ちなみに日本の中国地方は「近国・中国・遠国」と分類したうちの一つのことである。英語で言うところの中東(Middle East)のようなものであろう。この紛らわしさを解消するという意味だけでも「支那」の復権には意味があると思う。もちろん、国家を表すときは「中華人民共和国」を使用すべきである。よい略称は思い付かないが。

しかし現実的に最も嘆かわしいのは、ワープロの漢字変換(ATOK 11を使用)で「しな」と打って「支那」が出てこないことである。すでに盲目的な自主規制による言葉狩りの手はここまで及んでいるのである。